聖徳太子(厩戸皇子)は実在の人物?三宝興隆の詔とは!

2020年8月14日

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こんにちわ(^^)かわせみです。

今日は日本の歴史のお話です。

今からおよそ、1500年前の飛鳥時代のお話です。

日本ってホントに歴史のある国なんですね(^^)

聖徳太子(厩戸皇子)は実在の人物?三宝興隆の詔とは!

  1. 聖徳太子(厩戸皇子)は実在の人物?
  2. 三宝興隆の詔とは何のこと?

聖徳太子(厩戸皇子)は実在の人物?

私、カワセミは歴史が大好きなんですが、

ここ最近は色々、歴史の解釈が変わってきていて、

再度勉強中であります

(`・ω・´)ゞ

さて、飛鳥時代の政治家の一人、聖徳太子

彼の功績は素晴らしく、

「憲法十七条」の制定

「冠位十二階」制度の導入

「遣隋使の派遣」など

数多くの功績がありますが、

最近の歴史研究では、聖徳太子は存在しなかった!!

というのが有力です

Σ(゚Д゚)

その根拠としては、

(1)冠位十二階などは「多くの人の手によって」完成した
(2)憲法十七条は彼の死後に完成した
(3)遣隋使は小野妹子よりも前から派遣されていた

とのことが理由だそうです。

(1)と(2)については、一人で作るには

 膨大すぎる仕事量であること

(3)は時間の食い違いだそうです。

では、なんで「聖徳太子」という名前の人が歴史の中に

登場したのでしょうか?


それは、天武天皇が即位してまもなく、

中央政権を作る上で天武天皇自身が優秀であることを

証明する為に、約50年前に存在した直系の祖先の

厩戸皇子(うまやとおう)の優秀さを利用して

「冠位十二階」「憲法十七条」「遣隋使派遣」などの

制度を全部、厩戸皇子の功績としたのが起因とされています。

そしてこのときに

厩戸皇子=聖徳太子

が誕生した瞬間です。

太古昔の話なので、水に流すとしましょう(^^)

 






三宝興隆の詔とは何のこと?

聖徳太子もとい厩戸皇子が活躍した飛鳥時代

厩戸皇子は推古天皇の摂政をしていました。

当時女性が天皇になったとき、

政治をする代わりの人がすることになっていました。

 

推古天皇は仏教を用いて日本を統治しようと考えて、

仏法を大事にするために寺院を建てることを推奨する

命令(詔:みことのり)を出しました。

594年2月1日のことです。

推古天皇や聖徳太子が活躍した時代から

1500年が経ち、経済的には豊かな国になりました。

しかし、

推古天皇が目指した日本になっているか?

今一度みんなで考えて見てみませんか?

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